Thanks for Comment

「保守のモラル」「リベラルのモラル」という表現については
http://homepage.mac.com/biogon_2...980/E975889914/
およびそこにURLがある
http://homepage.mac.com/biogon_2...www/ lakoff.html
をご参照ください。


リベラル的なるものと保守的なるものの使い分け、ダブスタという視点には納得。つまり保守にもリベラルにも徹していないわけです。いわゆる現代のネット右派という人たちは、我々の親世代(昭和一桁)などの経験したきわめて理不尽な社会的がんじがらめさに比べれば、自分たちがはるかに自由でリベラルな社会に育った事実に無自覚なのではないかという感じがすごくするのですが。少なくも彼らはそれを全否定できないわけで。

たとえば自分が冤罪でぱくられたとしても、「無実を主張すること」自体自動的に反権力的態度=左的態度となることも想像できない人が多く、自分は左翼じゃない弁護士に頼みますwとかわけのわからんことを言うわけです。でもそれって考えてみればへんなんですよね。

だから何かの拍子に上っ面だけの右的態度が本物の保守的価値観と対峙した時にそのほころびが見えるような気がするのです。小泉構造改革の支持者に特に感じるのですが、左翼の戦略的枠組みをそのままに、言説を保守のものと置き換えただけのものが彼らの方法論であり、そこは西部や西尾にとって我慢ならない部分なんだと思われます。あれは保守ではないと。ネット右翼やオタク保守にしても、同様の意味で右翼や保守になりきれていないわけで。

>プロレタリアートが共産党(あるいは社会党)を支持するわけじゃない、女性がフェミニズムを支持するわけじゃない、というのは常に左翼的な運動の抱えている問題であった

左翼の前提とする人間像そのものが誤っていたのでは?人間の本質論ではある意味保守の方が正解だったといえるのではないでしょうか。つまりどうしようもないのが世の中で諦めろという身も蓋もない結論になってしまうわけですが・・・。


>自分たちがはるかに自由でリベラルな社会に育った事実に無自覚なのではないかという感じがすごくするのですが。

まったくその通りだと思います。まぁ、年配の人の中にも昔の苦労はすっぱり忘れて「昔はよかった」という人がいますからね(w

>「無実を主張すること」自体自動的に反権力的態度=左的態度となることも想像できない人が多く、

これは非常にわかりやすい例ですね。「左翼でない弁護士」に頼んで「素直に自白しろ」と説教してもらうんでしょうかね。

>人間の本質論ではある意味保守の方が正解だったといえるのではないでしょうか。

これは相当程度認めないといけないでしょうね。「変わりようがない本質」がデンとあってそれゆえ「どうしようもないのが世の中で諦めろ」と即断するかどうかは別として(w 人間の動機とか認知構造についての前提を問い直さねばならないことは間違いなく、N・Bさんや私がレイコフの議論に注目しているのもそのためです。


Gravatar  エーとまず第一に、ブクマのコメントはもっとひどいのがありますあくまできちんと読んでくれる方へということでよろしいでしょうか?

>人間の本質論では
 これは本を読まないとわかりにくいのですが、「人間の本質」というのはまさに「保守のモラル」の具体的にでる時のキー概念なのです。これが固定していて動かしえない、そしてここから正しい判断が演繹されるというのが保守のモラルの思考法なのです。レイコフの最大の貢献のひとつは、「人間の本質」としての「認知における人間の本質概念の認知フレーム」の非単一性を二つのモラルシステムという形で認知科学的に示したことだと思っています。とはいえ、モラルシステムの外部にあるものもあるし、人間は完全にこれに従うわけでもない、けれど認知フレームですから人間を常にある程度束縛します。「人間の本質」として「複数のモラルシステム」があるわけです。


Gravatar >あくまできちんと読んでくれる方へということでよろしいでしょうか?

それでいいんじゃないでしょうか? もしここまで乗り込んでくるならそれはそれでお相手申し上げますが…

>これが固定していて動かしえない、そしてここから正しい判断が演繹されるというのが保守のモラルの思考法なのです。

社会生物学批判者は結果として「誰が敵であるか」については多分に間違えていたけれど、「なにが敵か」については間違ってなかったとも言えますね。まあ、戦い方についてもた分に間違えていたといえそうですが。


Gravatar >N.Bさん

えーっと、だからですね、もちろん貧乏人に限らず資産家のぼんぼんで左派に傾倒する人もいるわけで、ただ量的なものとしてはほぼ古今東西通じて保守が多数派にならざるを得ないところをどう考えるかというところでしょうね。

人間の本質論ですが、マジョリティーが保守的モラルシステムを支持する以上、結果として社会は保守的傾向を持たざるを得ない、ということではないでしょうか。もちろん保守がマジョリティーとは限らないという見方も出来ますが、社会がある種の秩序を前提とする以上、保守がデフォルトでリベラルは常に少数でそれに揺さぶりをかけるといった性質のものになるしかないのかもしれません。少なくとも現実社会と接しているとそう思えて仕方がないのですが。それともこれは日本やアメリカだけの話で、北欧などでは事情が違うんでしょうか?


Gravatar オタクの最大の問題は、オタクというものが少数派であり、またオタクという集団自体がその方向性を同じにせず自らオタクを集団的に概念として社会に対して顕在化することのリスクを負わないで逃げているために

服装・容姿といった外的要因により、又はさも、その人の趣味嗜好がオタク的とされるもの(特に声優系とかアイドル系とか)でのみ構成されているような誤解を招く報道や風潮により社会側(一般側)が時に都合の良いようにオタクを定義していることであると思うのですが

オタクが自らの立場を主張すべきなのは正論ではあるけれども、そういった主張というものはやはり最初から一定の理解を得られるという前提がなければ行動には移しにくいのも事実
だれだって負けるとわかっている喧嘩はやりたくない

オタクに限らず人間関係の問題点の最重要なところは相手との距離感であり、守るべきアイデンティティーと許容すべき他者の常識のバランス感覚がオタクに欠如していることが問題であるのではないでしょうか?

守りたいものと、変えるべきもの
重要なのは自己の核となっている信念をそれぞれが自覚し他者との協調を図ることであると思います

個人的にオタクは
「あるがままに愛されたい」願望が強い
母性的な愛情をもとめるわけですが

実際問題恋愛対象は絶対的に他人である可能性が高いわけで母性的な受容やほぼ不可能であり
「核となる自我を保持しつつも協調する愛」
を目指すことが重要であると思うのです


つまり、オタク自身がオタク文化の中において
自己表現・個人的な嗜好といった不可侵であるべき自我の核を自己肯定することと

最低限の服装や最低限の清潔性、TPOをわきまえた行動など核ではない部分のオタク的とされがちな特徴を改善することを同時に行うこと
がなされれば、
不要なオタク叩きや差別を減らすことはできるはずですし、そもそもオタク文化に対して知識を持たない部類の人間は外的要因によるオタク叩きくらいしかする能力はないし、オタク叩きするために、わざわざオタク文化を学ぼうとするような奇特な人間もすくないはずであると思うのですが


Gravatar  とりあえずミソジニーのことがコメント欄では消えつつある、これはまずい。けれど…。

>マジョリティーが保守的モラルシステムを支持する以上
 私は某所で共産主義関係者といわれましたが、人間の進歩に対する信頼があるという意味では共産主義と同じです。レイコフはどうもリベラルのモラルの広がりと歴史の進歩を重ねているようです(奴隷制が廃止されたetc)。その意味で実はすなふきんさんと近い想定をしているのだと思います。ただ、レイコフ自身はおそらく60年代の記憶からかつてある時期はリベラルが多数(少なくともかつてなく強くなった)であったという前提を置いているのではないかと思います。

日本に関してはそんな時期は一度もなかったと(いかに戦後民主主義と高度成長の結果、自由でリベラルな恩恵を受けたとしても)と考えるので、私もすなふきんさんに近いですね。いずれにせよ、レイコフの論点は人がそれに縛られて語り行為する論理的厳密さとは違った一貫性を持つ認知フレームが複数のタイプの存在するということです。このことは、ある種の希望ではあると考えます。

 ただ、紹介されたエントリーでも、私はあれこれとこのモラルシステムと社会理論や政治哲学との関係など考えています、明らかにレイコフの理論だけでは「現実の社会」を考えるのには足りないからです。レイコフの本の後半でも発達理論に即していろいろ考えられていますがまだまだという感じです。

 保守のモラルが秩序の要であるかはその場合重要な問題だと思います。私自身、デリダとリベラルのモラルを重ねられるのではと考えていますから。ただ、Apemanさんのエントリーにおけるダブスタは、保守のモラルは不安(あるいはやましさ)の除去において、リベラルより保守のほうが効果が強いということによっていると思います(「弱者」にやさしいわけですw)。保守のモラルの空洞化のしやすさもここから来るのだと思います、これが二つの保守の存在の理由でしょう。さて理論上はこのような保守のモラルによる社会の自壊に対して、リベラルのモラルはオルタナティブとして有効だとはいえるのですが…。やはり私も、すなふきんさんの懸念はよく分かるのです。

 なお、レイコフを読んで得た二つの発見は、一つ目がリバータリアニズムが(リベラルよりはるかに)保守のモラルに依拠していること。共産主義(というよりはマルクス主義)は、保守のモラルがかなり入り込んでいてそれは(多大な悲劇をもたらしたけれど)悪いとは一概に言えないということです。

 まあ、Apemanさんの書かれたとおり、モラル理論は、認知や推論をそのタイプが支配するということに最大の意味があるのですが。

>「なにが敵か」については間違ってなかった
 「98%チンパンジー」のような本が必要な理由はまさにそれですね。


Gravatar あきのそらさん、はじめまして。ご意見にははてなのブックマークコメントとあわせてエントリへの追記でお答えしたいと思います。

N・Bさん

> とりあえずミソジニーのことがコメント欄では消えつつある、これはまずい。けれど…。

というか、そもそもエントリのタイトルが的確でなかったという気が…(^^; フェミニズムへのバックラッシュについて考えるうえでミソジニーの問題は避けて通れないのでこの機会に考えようと思ってタイトルにしたのですが。

>レイコフの本の後半でも発達理論に即していろいろ考えられていますがまだまだという感じです。

その通りで、ここはやはり政治学や社会学の知見との交流が必要なところでしょう。

>保守のモラルは不安(あるいはやましさ)の除去において、リベラルより保守のほうが効果が強いということによっていると思います

そうなんですよね。「強い父」への同一化ですから。しかし所詮自分自身が「父」であるわけではないんで、ここがアキレス腱であるはずなんですが…。

>共産主義(というよりはマルクス主義)は、保守のモラルがかなり入り込んでいてそれは(多大な悲劇をもたらしたけれど)悪いとは一概に言えないということです。

これは面白いですね。また機会があったら詳しくお願いしたいです。

> 私は某所で共産主義関係者といわれましたが、

あれ、私も文脈を測りかねています。文体は確かにN・Bさんの推測するあの人を連想させますが…。


Gravatar 保守の場合は「俺は保守だ!封建主義者だ!文句あっか!」wという感じで居直れるところが多分にあると思うんですが、リベラルはどうしてもそこらの「押し」が弱いw。ヘタレというか・・・。ヘタレでない「骨太なリベラル」というのに心あたりがないんですよね。逆に何優等生ぶっとるんじゃこいつって感じで。だからネット上でも現実社会でもとりあえず虚勢でもいいので保守を名乗っていれば安心できるところはすごくありますよね。それにこれはヤンキー的な感性とやはり親和性があり、要は「ワル」の要素が保守というか右派を優勢にするひとつの要素なんでしょう。モテ・非モテでも、結局右派的な「ワル」がモテ組になるという事態に変わりはないわけで。

保守的モラルとの関係では、保守のモラルは競争に勝つための手段としての悪にはむしろ肯定的なところがあり、そのことが実業家などの「現実主義者」が大抵保守であることと関係あるんでしょう。男の子は悪いぐらいがちょうどいいという昔からのほめ言葉にも表れてますね。

「ワルなリベラル」という可能性についてはどうなんでしょうかね(笑)。


Gravatar >リベラルはどうしてもそこらの「押し」が弱いw。ヘタレというか・・・。

いやまさにそこが問題で…。リベラルにとっては政治と道徳を分離するのが原則で、自分の道徳を強要すると自己否定してしまうことになる。他方で保守の方はむしろ自分の道徳を他者に押しつけてこそ男子の本懐! という非対称性があるわけですね。

>「ワルなリベラル」という可能性についてはどうなんでしょうかね(笑)。

リベラル特有の痩せ我慢をスタイリッシュに見せる文脈をどうつくるか、でしょうかね。


Gravatar >自己肯定の根拠にできないような属性に固執するのは「ほんとは変わってもいいかなと思ってるけど変わるのがめんどくさい」のを言い繕ってるだけだと言われてもしかたないよ、と言いたかったわけです。

本末転倒ですが、そもそも、自己肯定の根拠となる属性と、DNAレベルで半強制されている異性愛が天秤で釣り合うかどうかを論じること自体が異常だと思うのです
(個人的には一般的な恋愛論は文化的ではなく、もっと原始的でマズローの欲求階層説でいう最下層の欲求であると思うのです)

極端な話、「仕事と私どっち選ぶの?」並に痛い話だと僕は考えます

本音をいえば、恋愛感情なんて下らないものから開放されたらどれだけ幸せかな本心から思うのです
最終的にヒト科ヒトは動物であり、異性愛という感情からは逃れられないわけで、たとえ自我の核と天秤にかけてそれを否定しても、その欲求と命令は消すことはできないわけで、どんな手段をつかっても非モテは負けです

僕が思うに非モテであるオタクが憤慨している一番のポイントは、(モテないからオタクになった人を除く)

「オタク趣味にたどり着いたは
他の趣味にたどり着いた一般人と同じで偶然であるし、
他の趣味にたどり着いた人々がその趣味と恋愛とを天秤に書けることを強いられていないのに、
何故自分たちだけがそれを当然のように強いられるという不平等があるのか?」
という点でしょう。

もちろん、服装・言動等最低限の常識あるオタクのみが口にして良い論理ではありますが

そして一番不幸なのは、守るものもなく、モテない人だと思います


Gravatar あきのそらさん

面白い問題提起をありがとうございます。

私は社会生物学にも関心を持っているもので、DNA云々とうはなしになると細かいところにこだわりたくなるのですが(w、とりあえず「半強制」という表現であればそのあたりは棚上げしておくことができます。

>本音をいえば、恋愛感情なんて下らないものから開放されたらどれだけ幸せかな本心から思うのです

トニオさんが「セックスに過剰な意味付けをするな」と主張しておられた
http://d.hatena.ne.jp/VanDykePar...0123/ 1138029223
のも、文脈はやや違うにせよ結論としてはかなり近いと思います。また私のみるところ、『電波男』の本田透氏も最初は「恋愛至上主義から自由になれ」と語っていたのに敵が「恋愛資本主義」に変わることによって「俺たちの方が純愛だ!」となってしまい、結局「恋愛至上主義」に逆戻りしてしまった、ということではないでしょうか。

>他の趣味にたどり着いた人々がその趣味と恋愛とを天秤に書けることを強いられていないのに、
>何故自分たちだけがそれを当然のように強いられるという不平等があるのか?」

実際には「非オタク」な趣味の持ち主でも「趣味と恋愛を天秤に」かけることを求められてることはある、って思うんですよ。「あんた、週末になるとゴルフばっかりしているけど私と会いたくないの?」とか。それこそ結婚してこどもができると趣味に使える小遣いは限られてくるわけですし。単なる趣味と割り切れるか、それともアイデンティティの一部だと考えるのか、の違いなんでしょうけど。


Gravatar  突然ここも人気ブログになってしまいましたが、またずれたことを書きます。

 恋愛至上主義という形であれなんであれ、人間の価値を決めるものを強迫的に求めることが今の社会を蔓延していることは確かだと思います。私自身は実は、10年前よりはましだったりもするのですが、しかし何か不安が深まっているというのはぬぐいきれません。まあ私は「主義者」(これは昔から)で「芸術関係」(これはわりと最近)なのでかなり楽です。自分が何に頼っているか自覚がない人はもっと楽なんだろうなとやっかんでついつい嫌味を書いたりするのですが。

 ただ
>守るものもなく、モテない人
 というのはやはり辛いでしょうね。この場合モテるモテないというのは「他人」(他者じゃなくて)という極めて厄介なものとの関係を結べるかということですから(実はこれはコミュニケーションスキルとは関係ないような気が…)。「守るもの」というのは、「他人」を「身内」にしてくれますから(いわゆるホモソーシャル)、それがないのはつらい。ふっと、思いついたんですが、日本の左翼運動のホモソーシャル性って(まだましになったと思うけれど)のも同じ理屈でできたのでしょう。もし、それが運動の(本当の)魅力だったとすれば、オタクがより安易に保守に流れるのも無理はないなー。昔、宮台真司がそういうきつさについては語っていたけれど、現在の彼への変化は気になります。それも、今、何かが起っているという現実があるということでしょうか。


Gravatar > 恋愛至上主義という形であれなんであれ、人間の価値を決めるものを強迫的に求めることが今の社会を蔓延していることは確かだと思います。

5 年ほど前の本ですが、『自己コントロールの檻』(森真一)なんかを読んで以来気になっている問題の一つですね。前にも話題にしましたが、丸山的に言えば「である」価値であるべきものが「する」価値に侵食されているのだと言うこともできます。ある意味ではそれは「自由」の代償であるだけに厄介です。

>自分が何に頼っているか自覚がない人はもっと楽なんだろうなと

あるレベルでは確かに「楽」なんだけど、その楽さは腐食性というかあなた自身をじわじわ蝕むんじゃないですか、というのがこのエントリの主題だったわけです。

>この場合モテるモテないというのは「他人」(他者じゃなくて)という極めて厄介なものとの関係を結べるかということですから

>「守るもの」というのは、「他人」を「身内」にしてくれますから(いわゆるホモソーシャル)、それがないのはつらい

ここなんですが、後者についてはよく分かるんです。ホモ・ソーシャルなつながりはとりあえず叩くというのが文化左翼のお約束みたいになってますが(w、実際のところホモ・ソーシャルなものに依存しない生き方にはとてつもない強さが必要で、普通の人間には「守るもの」がなければつらい、と。
前者は、いわゆる性愛的な関係性もその実ホモ・ソーシャルなものだ、ということでしょうか?


Gravatar まあ、人生のいろいろを考えてふと書いたので、きちんとはしてないのですが。

 とりあえず「他人」というのは、「異物」でもなければ「身内」でもないというそういうものです、「他者」というにはありふれすぎてると。これは、引きこもりや対人恐怖などで問題になるようなような微妙な距離のことを想定して書きました。これを消すことができるかというのが、あえて言えばコミュニュケーション能力なのでしょうが。このあたり昔の日本社会論みたいですが。

 確かに、その「とてつもない強さが必要」だということが前提にあるのであまりえらそうにはなれない(はずなんですけれどw)

 「自由の代償」というのまさにその通りですが、この場合の「自由」というのがどういうものかは(私には)本当はよくわからない、何かもわからないし望んでもいないものの代償というのも奇怪ですね。


Gravatar >とりあえず「他人」というのは、「異物」でもなければ「身内」でもないというそういうものです、

「他人」のターミノロジーについては了解いたしました。(このエントリの流れを踏襲して異性愛だけに限定すれば)男にとっての女の他者性を強調するのが観念的な恋愛論の定石なので(笑)、そのあたりを確認したかったわけです。

>この場合の「自由」というのがどういうものかは(私には)本当はよくわからない、何かもわからないし望んでもいないものの代償というのも奇怪ですね。

教科書的には「身分相応に生きる」ことを強いられないこと、であるわけですが、これを“身を以て”知っている世代はすでに日本では少数派になってますね。


Name:

Email:

URL:

Comment:  ? 

 

Commenting by HaloScan